茂木健一郎 クオリア日記<歴史を忘れる者は> 2006-10-14 羽生善治さんと対談する。 記憶の話が中心になった。  「羽生さんは、やはり谷川さんが最大のライバルという感じですか?」  「そうですね、何となく感性が合うというか、 他の人との間では起こらないようなことが起こる、という感覚はあります」  「今までに、どれくらい指しているんですか?」  「そうですねえ、160局くらいでしょうか?」  「どんな感じで対局されているんですか?」  「今までにあったパターンは、二度と起こらないように気をつけて打っているんだと思 います」  「谷川さんと指した対局は、全て覚えているんですか?」  「それは、当然です。それで、前と同じパターンでやっているのでは、谷川さんと指し ている意味がない、そのように思うわけです。だから、同じことは繰り返したくない。」  将棋の棋士が差し手を決める時に、コンピュータとは違う点として「直感」ということ がしばしば強調される。  しかし、羽生さんのやり方は少し違うようだ。  羽生さんの頭の中には、過去の様々な棋譜で試みられたことの膨大な蓄積がある。  ある局面で「直感」を働かすということは、その状況での駒の配列に基づいて先を読む 、 ということだけを意味するのではない。  「この局面はあの対局のあそこと同じだ」 などという具体的な記憶も常に参照される。  過去の蓄積という「巨人の肩」に乗って、羽生さんの指し手は決定されるのだ。  将棋においては、「棋譜」という形でその全歴史が記録されている。  だから、繰り返しを避ける、というような方針も、もし(羽生さんのように)十分な 記憶力があるならば、可能になる。  しかし、本当は人生一般、社会、国家も同じで、日本人は過去を水に流しがちだが、  本当は過ぎ去りし昔を決して忘れず、そこから学び続けるということが 大切なのではないか。 Those who forget history are doomed to repeat it. (歴史を忘れる者は、それを繰り返す羽目になる)という格言がある。    過去の教訓を忘れずにいるというのは、いわゆる「直感」とは少し違う 回路になる。  負けた時に、その原因を分析して学ぶ、ということも同じことだ。  成功した時の「強化学習」は無意識、自動的に成立し得るが、 熱いものに触れて懲り る、というような単純な場合は除いて、失敗からの学習は、ステップを論理的、意識的に 追う作業を必要とする。  将棋の棋士は、「奨励会」に(羽生さんの場合は12歳で)入会して以来、ずっと「失 敗から学ぶ」という訓練を続ける。  たとえば、何局か指した後、2,3時間、仲間と失敗の原因を検討するというのは普通 だという。  その際、羽生さんが大事だと言っていたのは「当事者意識」  負けたとき、ついつい私たちは「自分のせいではない」とか、「これは私に起こったこ とではない」などと棚に上げたいという衝動にかられるが、  本当は、引き受けて、向き合って、当事者意識をもって冷静に分析しなければ学ぶこと はできないのだ。  なぜ、そのような「敗因の検討」ができるのかと言えば、「ご褒美があるからですよ」 と羽生さんは言った。  たとえ、タイトルがかかった試合で負け、がっくり来ている時でも、自分が負けた原因 を検討しているうちに、「そうか、こんな新手があったのか」とか、 「こういう着想があったか」と気付くことが、うれしいから、それがモチベーションにな る、と羽生さんは言う。  羽生さんが負けて落ち込んでいる表情が、「あっ、そうか」と負けを忘れて輝き始める 。 そんな光景が目に浮かんで、私はそれをとても素敵なことだと思った。  その他、ここには書ききれないくらいのたくさんのことがよぎった対話の時間だった。  将棋という「脳の使い方の文化」に学ぶべきことは多いと思う。  羽生さん、ありがとうございました。