【レポート】日本認知科学会特別講演 「将棋と認知科学」 2003/6/10 6月6日〜8日の3日間、電気通信大学において日本認知科学会・第20回大会が開催された。 今回の大会において目玉となったのが、日本の人工知能研究の第一人者である、はこだて 未来大学 松原仁教授と、将棋界の第一人者としておなじみ羽生善治四冠王(名人・竜王・ 王座・王将)の両名による特別記念講演「将棋と認知科学」。内容は羽生氏の対局中にお ける思考方法の話からコンピュータ将棋の現状に至るまで多岐に渡り、羽生氏の強さの一 端がうかがえるエピソードも多数飛び出した。 ○全ての可能性を全部先読みするのは無理 まず講演の冒頭では、松原氏からコンピュータによる解析対象として将棋を捉えた場合の 問題点等に関して説明が行われた。 一般に広く知られているように、チェスや囲碁は終盤にかけて指せる手数が少なくなるの に対し、将棋は取った相手の駒を自分の駒として利用できるために終盤になればなるほど 指せる手数が増えるという特性がある。そのため初手から終局までに指される可能性のあ る手数を数えるのは非常に難しく、松原氏も「正直なところ、どの程度のパターン数があ るのか正確なところはわからない」のだという。 今回の講演では将棋のパターン数について10の220乗という数字が示されたが、これにし ても過去のプロの対局における棋譜を解析した結果、1手ごとにだいたい80個ぐらいの選 択肢があり、1局あたりの平均手数が約115手であるというところから出てきた数字だとい うことで、理論的にあり得る選択肢となると、これをはるかに上回ることになる。とはい え10の220乗という数自体非常に膨大な数であるため、「理論上、将棋にも必勝法は存在 するはずだが、とてもこの数を全て解析して必勝法を探すなんてことは半永久的に無理」 と松原氏は述べた。 また松原氏は、将棋において「金や銀といった駒の存在がチェス等に比べて局面の評価を 難しくしている」と指摘した。チェスの場合は駒が1個動くたびに局面が大きく動くケー スが多く、数値による局面の有利・不利の評価がやりやすいのに対し、将棋では金や銀を 1手動かした程度では形勢にはほとんど変化がないことが多く、数値による評価が難しい のだとか。特に序盤の駒組みの段階では局面の有利・不利の差がほとんどつかないために 数値による評価が困難であり、このことが「(コンピュータ将棋は)終盤、特に詰め将棋的 な段階になるとプロ棋士以上に強いのに、序盤の終わりあたり(定跡が通用しなくなるあ たり)は非常にもろい」という特徴につながっていると述べた。 ○将棋は「マイナスになる手の方がはるかに多い」ゲーム  羽生四冠王(左)と松原教授 以上の説明の上で、今度は松原氏が羽生氏に質問するという形で対談が進められた。まず は羽生氏がどのようにして次に指すべき手を読んでいるかという話題で、羽生氏が語った のが「将棋とは、プラスになる手よりもマイナスになる手の方が圧倒的に多いゲームであ る」という話。 例えば、対局している双方が共に駒組みを完成した状態というのは、お互いにとってある 意味「ベストな状態」であり、そこから手を指すということは自分のベストな状態を崩す ことになってしまうほか、それ以外にも実際の対局中では「どの手を指しても現状より悪 くなる」ということで指す手に困ることが結構多い、と羽生氏は語った。そのため「自分 から攻撃する方が難しいし、攻撃に失敗したときのダメージも大きくなるので、先に相手 に仕掛けさせてそれを受ける形にした方が指すのは楽」であることから、特に序盤戦では 自分が有利になるように指すというよりは、むしろ相手が仕掛けてきた際にできるだけ対 応できる可能性を広く保ち、動かせる駒をたくさん残すように気をつけることが多いのだ そうだ。 実際の対局中も、中盤戦以降になると最高で20手程度まで先を読むことがあるが、序盤戦 は深く読みを入れてもあまり意味がないことが多いため、1手ごとに考えることが普通だ という。ただ松原氏はこの意見に対し、「"マイナスになる手の方が圧倒的に多い"という が、一般人やコンピュータ将棋にはそれ(どの手がマイナスになるか)がわからない」と述 べており、実際問題として羽生氏のこの感覚を一般人が真似するのは無理そうである。 ○局面の記憶実験はよくある局面とランダムな局面で大きな差 続いて登場したのが、プロ棋士やアマ上級者と初心者で、将棋の局面の記憶力にどのよう な差があるかを測定した実験の結果。プロ棋士が何年も前の対局の棋譜を寸分違わず覚え ていて、局面を再現したりする様子をテレビ番組等でご覧になったことのある方も多いと 思うが、実際のところどの程度差がつくものなのだろうか。 というわけで、今回の実験では実際の対局でもよくあるような局面(今回はプロの実戦譜 を使用)と、コンピュータが完全にランダムに駒を動かした局面の2通りについて、それぞ れ3秒間盤面を被験者に見せた後、その盤面をどの程度再現できるかを調べた結果、プロ の実戦譜については初心者と中級者(アマ高段者)・上級者(プロ八段)の間で大きな差がつ いた。おもしろいのは、中級者と上級者では40手ぐらいの局面までは正解率に差がないの に対し、その後、中級者の正解率が急激に落ちる点。これについて松原氏は「40手あたり というのはいわゆる序盤戦が終了するあたりであり、プロはその後の中盤の展開について もある程度定跡としてパターンを覚えているのに対し、アマはそこまでのパターンを覚え ていないからではないか」と分析した。 一方、完全にランダムな局面においては、初心者・中級者・上級者のいずれも正解率は50 %以下となり、手数による差もほとんどつかなかった。このことから、記憶力の差は絶対 的な能力の差ではなく、過去に同じような局面を経験したかどうかという要素による差が 大きいのではないか、という見解を松原氏は示した。 これについては羽生氏も会場との質疑応答の中で、多面指し(1人が多人数相手に同時に将 棋を指すこと)の際の経験談として「個々の対局についていちいち何の手を指したかは覚 えていないが、盤面を見ればこれは自分が指した手かそうでないか(相手がズルをして駒 を動かしたか)すぐにわかる」と述べており、自分がよく指すような局面については普段 から見慣れているために覚えやすい、という側面が少なからずあるものと見られる。 ○プロは形勢判断や時間配分をどうしている? ところで、コンピュータ将棋の作者がよく苦しむ問題の1つに、思考に使える持ち時間の 配分がある。コンピュータ将棋世界選手権のルールでは「思考時間が25分を超えると負け 」となっており、持ち時間が切れても秒読みルールがあるプロの将棋に比べ時間の管理に シビアさが要求されるため、若干事情が異なる部分はあるが、プロはそのあたりをどうし ているのだろうか。 羽生氏は時間配分について「圧倒的に形勢がよくなってしまえば(すぐ次に指す手が見つ かるので)持ち時間は関係なくなる」と述べた上で「基本的には形勢を良くできそうだと 思えば長い時間考えるが、"まだ先は長そうだ"と思うと早めに指して時間を残すというこ とはあると思う」「早く有利にしてしまえば次が楽になる」と述べ、序盤・中盤に長めに 時間を使う傾向があることを示した。ただ一方で「オセロや囲碁などと違い、将棋は必ず しも終盤の局面が収束に向かうとは限らないため、私でも(時間配分に)迷うときはある」 と述べ、プロでも時間配分は難しい問題であることを明かしている。 また、思考時間の中でどの程度の時間を形勢判断に割いているかについては、「判断自体 はほぼ直感的に行う」「次の一手の候補を考えて、不利な手がなければ有利だと考える」 と述べ、あまり形勢判断自体には時間はかからないことを示した。一方で「プラスになり そうな手が見つからないときには、ただ将棋盤を眺めるだけで思考停止することもよくあ る」とも述べており、このあたりは「不利になればなるほど時間を使う」傾向があると言 えるかもしれない。 ○コンピュータ将棋の今後の可能性は? 最後に話題に上ったのが、今後コンピュータ将棋がどこまで強くなるのかという話題。こ れについて羽生氏は「基本的に弱くなることはないから、いずれはプロレベルまでは強く なるだろう」「"ソフトが進歩しなくてもハードが進歩することによって強くなる" とい うこともあるだろう」と、少なくともプロ四段レベル程度までは強くなるだろうという見 解を示したが、プロの名人クラスを負かせるレベルまで到達するかどうかについては明言 を避けた。 また今回の対談にあわせて、事前に羽生氏と昨年のコンピュータ将棋選手権の優勝ソフト 「激指」が平手で対局を行った結果(結果は当然羽生氏の圧勝)も披露され、羽生氏は対局 した感想として「若干戦略ミスは見られるが、個々の手については明らかに変な手という のは見られなかった」「簡単には崩れないという印象を受けた」と述べた。これを踏まえ て今後のコンピュータ将棋については「粘り強い、相手に決め手を与えないという方向で 強くなっていくのではないか」との見解も示していた。なお羽生氏は「攻めに比べると、 受けはあらかじめ相手が攻撃してくる手がわかりやすい分、部分的な解析が可能なのでコ ンピュータ将棋に向いているかもしれない」という指摘もしている。 ちなみにコンピュータ将棋がプロ並み、あるいはプロを超えて強くなった場合にプロ棋士 という存在はどうなるのか、という質問に対しては「別に将棋自体の魅力が薄れるわけで はないし、全ての可能性を解析するのは(冒頭で松原氏が述べたように)ほぼ不可能なわけ だから、プロ棋士という存在が不要になることはない」と述べ、コンピュータ将棋とプロ 棋士とは十分に共存可能であるという姿勢を明らかにした。 (佐藤晃洋)