[羽生講演] <自信を持って次の一手> 私は中学生のころに棋士となり、ちょうど17年たちます。将棋は一対一の完全な個人競技 で結果がはっきりしている世界です。あいまいな部分がなく、20の駒を動かして相手の王 将を取るまで一切の偶然性が入り込まないのが大きな特徴と言えます。  自分の意思で戦法を決め、結果について責任を負うという面で、負けても団体競技のよ うな言い逃れはできません。勝った時は大変うれしいのですが、負けた時はまるで自分が 否定されたかのような気分になります。ただ、実際はこのような明確な部分に惹かれて将 棋の世界に入ってくる人も多いようです。 <直感と言ってもでたらめとは違ってこれまで蓄積した知識や経験を総動員した結果なの で、意外と正しい一手だったりします>  棋士をしていて一番よく聞かれるのが「何手くらい読むのですか」という質問です。将 棋の思考には大きく分けて「読み」と「大局観」の2通りあります。考えられる手を一つ 一つ調べていくと非常に時間がかかるため、おおよその目星をつけていく作業を大局観と 言います。一つの場面で80通りくらいの動かし方が考えられるのですが、1手ずつふるい 分けていくのは大変難しい作業となります。そのため多くの可能性を排除し、2、3通りに 絞って考えるようにしています。相手の次の手を読む際も、同じ作業の繰り返しになりま す。  意外と時間がかからないように思われますが、実際一つの場面で長い時は1時間近く考 えてしまうこともあります。先をはっきり読むというよりは、ぼんやりした中を模索しな がら方向性を誤らないように対局を進めていくといった感じです。  長時間考えて3手に絞ることもあれば、いきなり直感で1手に絞れることもあります。直 感と言ってもでたらめとは違ってこれまで蓄積した知識や経験を総動員した結果なので、 意外と正しい一手だったりします。逆になかなか結論が出せずにあれこれ迷った状態で長 考するのはあまりよいことではありません。短い時間で思い浮かんだ手は邪念が入ってい ないので信頼性が高いのですが、長考すると迷いや不安も出てくるため客観的な判断が難 しくなってきます。じっくり考えなければならない局面もありますが、その上で踏み込み を恐れないことが重要だと思います。  棋士になるには必ず10代の時に養成期間が設けられています。知識以外の感覚的なもの を養うには20代になってからでは遅すぎるからです。若い棋士の中には知識の習得よりも 感覚を養うことに時間を費やす人も多く、非常に短い時間で多くの実践をこなす練習を積 んでいます。実践で覚えたことは忘れにくく、失敗しても検証を繰り返すことで自然に身 についてくるわけです。  創造は直感と記憶がうまい具合にかみ合わさった状態で生まれるのだと思います。覚え ることに軸足を置きすぎるとひらめきはさえません。私自身、最近は対戦した棋譜を忘れ やすくなっています。記憶力の低下も一因ですが、新しいことを創造するために忘れてい るのだと勝手に解釈しています。 <どんなささいなことでも自分の力で達成した経験というのは貴重なことだと考えていま す>  将棋は恐ろしいもので、施設や場所の制約がないので起きている限りはどこででも局面 のことを考えることができます。私はあえてそうせず、普段の生活では将棋を忘れるよう にしています。水泳が好きなのですが、泳いでいる時に将棋のことが頭にあるとおぼれて しまいますからね。適度に気分転換を図り、めりはりのある生活を心掛けています。  人間の集中力には限度がありますから、長時間練習すればその分多くを吸収できるとい うものではありません。私の場合、タイトル戦が詰まっていて多忙な時の方が効率よく練 習できます。時間がありすぎるのはあまりよい状態ではないようです。特に将棋の世界は 自己管理の下で練習するので、制約はほとんどありません。10代の遊びたい盛りに修行す るわけですから、せっかく才能があってもそれを浪費してしまう人も少なくありません。 時間の使い方などを含め、自分との戦いになってくるわけです。  最近、小さい子どもに将棋を教える機会があるのですが、見ていて思うのは自信を持っ て指している子とそうでない子がいるということです。頑張って何かをやり遂げたことが ある子は自分に自信を持っているようです。どんなささいなことでも自分の力で達成した 経験というのは貴重なことだと考えています。  将棋は勝負の世界ですから先が全く見えません。それこそ不安材料は山ほどあり、心配 しだすと切りがありません。自分に自信がないとさまざまな邪念が入り込み、次の一手を 決めることすら難しくなってきます。そんな中でこそ自分自身を信用し、一日一日自分な りに充実感が得られるような生活を心掛けるようにしています。